友人に送った文
ある、コミュニティーの中で
『この世界はシミュレーションである』、『人は自分の人生を決めて生まれてきている』という、一部のスピリチュアルの設定に、今現在、苦しみのさなかにいる人が、さらに苦しんでる。
そして、そのスピリチュアルの設定を受け入れている人は、受け入れられない人を『低次元』とか『目覚めてない』とか言ってる。
『苦しみの中にいる人にとっては、これらの考え方が重くのしかかり、さらなる苦しみを生み出す可能性もある』
ことに思いを馳せることもなく、その状況に想いだけでも寄り添うこともなく、選民意識を持って蔑視する一部のスピリチュアリストは
自分の考えや価値観が否定されることを恐れて、異なる意見を持つ人を攻撃したり、排斥したりする傾向があり、「低次元」や「目覚めてない」といった言葉は、そうした自己防衛の表れと言えるかもしれない。
『ワンネス』と言いながら、なぜ分離を選ぶ発言をするんだろう。
いや、かつては私もそうだったかもだけど…
『私は、エンパスとして生まれて来て、アスペルガー症候群の家族とわかりあえず、否定され、心理的虐待に苦しんで、自分の存在を消したくて自殺未遂繰り返してきて、それでも、スピリチュアル、哲学、心理学、悟り、宗教的な学びを重ねてやっと這い上がってきた』という事実があっても
今、苦しみのさなかにいる人に、『見方を変えれば、どこにでも幸せは感じられる』と伝えても、例えば『戦争で亡くなっている人は』とか『虐待受けている人は』とか、不幸に目を向けて返ってきてしまう。
望まない死の危険に晒されている人がいるからこそ、環境的に平和な状況にいる私たちが、『生きていく』を選択できる、『死ぬ』を自分で選択できる私たちが、泥沼にも感じるこの世界で、あがいて這い上がるしかないんだって、絶望のさなかにいる人に伝えるのは難しい。
私自身、絶望の沼の底にいた頃には、そんなこと『頭ではわかっても』わからなかった。
『未来には必ず希望がある』とは、私は思ってないんだよね。
客観的に今の世界を見たら、希望のかけらもなく見える。精神世界的に、『それでもこの世界は完璧』だとしても。
だからただ、『今』に幸せを見つけて感じて、生きていることが、奇跡なんだと感じられるかどうかなのかな。
私は、未来に絶望してるわけでもないよ。
ただ、起きてくることをそのまま受け入れようと思っているだけ。
子どもには幸せであって欲しいと願ってる。
同じように、多くの人がこの世界の、国の、メディアの、その他のあらゆる洗脳から自由になって、本当の自分の意思で生きていけるようになって欲しいと思ってる。
『足るを知る』
自分がどれだけ恵まれているか、感謝しつつも、自分らしく生きるのには困難さがつきまとう世界で、私は静かに、自然の営みを感じながら、命を終える日を待ってるのかな。
ありがとう。
私自身は、今も幸せです〜
お金とかはほとんど持ってないけど、子どもと2人仲良く、屋根のあるとこに居られて、命の危険はなく、毎日ご飯を食べて、好きなYouTubeやアニメを見て、本を読み、なんて幸せなんだろう。
洗脳について…そうだなぁ…善悪とか、価値のあるものとか、こうあるべき、これが幸せだみたいなものが、テレビ等によって誘導されていたり、
ネットで、個々に信じるものによって、『これのみが真実』みたいな選民意識を持って、それ以外を蔑視してみたり、、
いじめを無くすにはいじめを行うもののカウンセリングから、とか、日本はそういう方向転換すらまだできてなくて
ほとんどの人が真理から目を反らして見える。
真理に近づくと、『宗教』とか言われる笑
昔言われてた『悟り』とか、一瞥したらその状態では生きていくことが不可能ってわかるから、結局、みんな普通に生きていくしかないよね。その『普通』が、人によるんだけど。
人間は、こんなにさまざまな力があるのに弱くて、昔のように、動物のように、植物のように『ただ生きている』では価値がないと思っているように見える。
でも、その積み重ねのおかげで、ネットが発達してこうして楽しめるんだけどね。
この世界線では、地球人は、生き方を間違ってしまったって感じているのかも。
私は子どもの頃から、『個々』という感覚がなかった。
自然が愛おしくて、虫も、木も、花も、魚も、(誤って死なせてしまうことはあったけど)、たまに『虫けらどもめ』とか『犬畜生』とかいう言葉もあったけど、なぜ、『下等生物』とかいう言葉があるのかすら理解できなかった。
人間が動植物より偉いとか、親が子どもより偉いとか、先生が生徒より偉いとか、大人が子どもより偉いとか、お金がすべてとか、勝った方が正義とか、今もそんな感覚は全然ないの。
この世界に、生きている存在は、魂があろうがなかろうが、、尊いと言うか平等と言うか……私たちは繋がっている、みたいな。
この世界に意味のないものはない。(そしてなんの意味もない)
でもそんな中で、人間の創るものだけが、悪意によって創造されたものは尚更、あるがままの世界を壊していく。
ガイア論とかではなくても、地球は悲鳴を上げている。
人間は、楽園を求めて進化しながら、すでに存在していた楽園を壊している。
そして人は、どこか未来に希望があると信じながら、特に日本人は、家族をかえりみることも忘れて、『仕事』を生きがいとし、絆を忘れて、孤独に死んでいく人も多い…
目の前にある幸せに、気づけずに、どこかに幸せがあると探し続けてる。
『幸せだ』と言う人の多くは、スピリチュアルや宗教等、何かしらの『この世界の人間が創った』価値観に依存している。
もちろん、これらは極論で、そうじゃない人もたくさんいるんだけどね。
孤独に歩め 悪をなさず 求めるところは少なく 林の中の象のように
『「幸せ」の定義は人それぞれ』
本当にそれにつきるよね。
この世界では、「幸せ」は外的な要因によってもたらされる…と信じられていることが多い。
『引き寄せの法則』ってあるでしょ?あれも、悲しい出来事が起きてしまった時には、つらい設定だよね。
そして、『望む現実を引き寄せる』って、さまざまな欲望…思念を撒き散らしていくのは、『ただ在る』からはとてつもなく遠いね。
確かにポジティブな思考が現実を創造するというのは魅力的な設定だけど、その一方で、物質的な豊かさや成功といった外的なものに焦点が当てられがちだよね。
外から引き寄せたもので、幸せを感じられるのなら、それでもいいのかもしれないけれども…
人間の本質とは、やはりずれてる感じがする。
外には、何もないからね…なんて言ってるから、『生きる』に執着がないのかもね。
生まれてきた目的が違う、という設定ということで。
そうだねぇ…
どうして、『チャネリングによって提供された真理』みたいなものを、みんなすんなりと受け入れていったんだろうね。
宗教も、ある時期にはすでに神や仏の教えとはかけ離れたことをしていたしね。
昔流行っていた、スピリチュアルの世界のスターシードとか、ライトワーカーとかいう設定が、今も残ってるとか知らなくて、今日はびっくりしたんだ。
日本人には日本人として生まれた役割があると感じているんだけど、その日本人が『レインボーチルドレンです!』とかなっていくのは、情報化社会の悪影響なのかな。
グローバル社会で、『日本』に固執するのは選民意識なのかもしれないけど、『わびさび』とか心の機微に敏感な日本人、『禅』の教えを知る日本人。サイコパス率が低く、HSPやエンパスの人口比率が高いと言われている日本人。そして、この変化の時代に日本に生まれてきたこと。それらすべてが、『内なる自分に向き合え』『目覚めよ』と言っているような気がしてならない。
白隠禅師のような覚者の教えとかが、知られつつも拡がらないのは、『悟りは普通の人が目指すところではない』と思われてるからなのかな?
普通の人に『悟り』を開くのは無理だと。
悟る悟らないじゃなく、単に、自分軸で生きるということ、そのときに、外側から得た概念や観念等はすべて脱ぎ捨ててまっさらにならないといけないということ。
だからこそ、『この世界はシミュレーションなんです』とか、『ポジティブ・ワクワク』とか、『引き寄せ』とか、そういうのも一旦全部脇に置いておいて、『無の境地』を楽しむのがいい。
チャネリングで繋がる、会話するのも、自分自身と、だね。
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