これは、『もし、今日が人生最後の日だとしたら…』という、有名なスティーブ・ジョブズの言葉とは少し違うニュアンスで、朝ではなく、一日の終わりや何か心がざわつくことがあったとき、特に以前、気持ちの切り替えに時間がかかっていた頃に、自分に言い聞かせていた言葉です。
子どもとふたりきりの我が家にはいくつかのルールがあって、その中のひとつが『喧嘩をしたら必ずその日のうちに仲直りすること』でした。
私は、『家の外での出来事を起因とした感情は家に持ち込まない(持ち込んでも子どもにはさとられないようにする)』と決めていたので、基本、私たち親子が不穏な空気になるのは、子どもが何かしらやらかしたときでした。
感情的に、声を荒げてしまったことも数回ありますが、ほとんどの場合、なんとか感情をコントロールしつつ、『諭す』ように努めていました。
完全に子どもに非があって、私が注意なり叱責なりしたときには、子どもが謝る。
注意なり叱責なりに、私の感情が多少なりとも乗ってしまった場合には、私も謝る。
私のメンタルが、子どもとは関係ない物事で弱っていて、そこに追い打ちをかけるように子どもとの衝突があったとき、子どもの言葉に古傷をえぐられるような感じがあったり、自分自身の子どもへの罪悪感をかき立てられるような言葉をぶつけられたりした時には、感情の制御がうまくいかずに、、、家を飛び出したりしたこともあります…꜆꜄꜆꜄꜆
でも、どんなときでも、無理矢理にでも自分の気持ちを切り替えて、子どもとじっくり話をして、最後にはお互いにごめんなさいをして、小学生の頃までは仲直りのハグをしていました。
それは、新しい一日を、笑顔で始めたかったから。
『おっはよー』から始まり、他愛のない言葉を交わし、『行ってらっしゃい』とハグをして見送る(小学生まで笑)、そんな当たり前の何気ない朝のひとときを、大切にしていました。
それは、私が子どもの頃に、母親に願っていた姿でもあったし、夕方までの時間が、またいつものように過ぎていく…とは思っていなかったからです。
今、生きているということが、どれだけ奇跡的なことなのかを、知っているから。
『今日すること』も大切かもしれないけれど、『今日、どのように在るか』を、私は大切にしてきました。
子どもが生まれてからは子どもに対してだけでも、そして、ある時期からはあらゆる瞬間で、良くも悪くも、心の動きを感じ、意識的に生きること。
ご飯を作るときには、鼻歌を歌えるような心で
『ポジティブに、いよう』としているわけではなく、どちらかというとフラットな感じで、
怒りや憎しみや悲しみなどの感情は、もう十分に味わってきたので、手放せるものは手放してきました。今は時々湧いてくるモヤモヤを観察して、感じて、手放していく感じです。
子どもに、パートナーに、職場の人に、友達に、通勤途中の出来事に、ネットのニュースや誰かに、イライラしたり、怒ったり、不満を言ったり、誹謗中傷したり、、よく目に耳にします。
何かが苦しくて、悲しくて、それが外への攻撃になってしまう人がとても多い。
そういう人ほど、自分の本当の心の状態に気づいていないことが多いです。
もしくは、『弱い』ような自分と向き合うことを避けているとか。
私のように、子どもの頃から自分に自信を無くしてしまった人は、何もかも自分のせいのように感じて、自己卑下がくせになってしまっている人もいるでしょう。
良くも悪くも、みんな過去に生きてる。
意識的に『ポジティブ』にいよう、としてる人は、実は『ネガティブ』に囚われている。
ひと昔前から、『今、ここ』が流行っているけれど、自分が無意識に引きずってしまっている過去に目を背けていては『今、ここ』にはいられないし
ひと昔前に私も囚われていた、スピリチュアルのキラキラな世界。最近もある設定のもとで『私は光の戦士』と言ってる人がいることを知ったのだけど、それは、現実逃避になっていないだろうか。
今日、今、心は穏やかだろうか。
悲しい出来事があったなら、『悲しいな』って自分の感情を感じきれているだろうか。
子どもに、パートナーにイライラしてしまったとき、『自分はどうしてイライラしてるんだろう』と、その理由を外(〇〇がこうしたから、こう言ったから)ではなく、自分の内に感じる、見つけることはできるだろうか。
消えてしまいたいような心持ちの時には、明日が来ることを地獄のようにも感じていたから、今苦しみのさなかにいる人には明日のことなんて、今日の終わり方なんてとうでもいいかもしれないけれど、それでも『これもまた過ぎ去る』と。
昨日より、少しだけ深く眠れたとか、鳥の声や虫の声に耳をすますことができたり、何かを見て微かにでも笑えたり、穏やかな心持ちになれたり、それだけでも『今日はいい日だった』と一日を終えて欲しい。
テレビは見ないけど、驚くような交通事故のニュース等が、最近も目に入ってきました。
自分は気をつけていても、いつ、何が起こるかなんてわからないと、私たちは知っています。
だからこそ、何かをするときもしないときも、『もし、今日が人生最期の日だったら』『もし、明日が来ないとしたら』
『do』ではなく『be』の方で、あなたは、どう在りたいですか?
本当の幸せとか
本当の人生とか
死について
生まれてきた意味について
誰かが意味づけした言葉ではなく、自分自身で感じながら、本当の意味の『自分軸』で後悔のないように生きたいものです。
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